光市母子殺害事件

この事件に関する報道を耳にする度に、非常にやりきれない思いがこみ上げてくる。

「罪」を犯した人間には「罰」を与えるというのは当たり前のことである。

人間が理性を保つために、刑罰というものが大きな抑止力になっているのは

否定できない。そのためにも、闇雲に刑罰を軽減すべきではないだろう。

今回の裁判は、被害者を置き去りにしてきた今までの裁判に対して、明らかに

一石を投じる事案となっている。被害者が泣き寝入りとなり、加害者の人権

ばかりが保護されてきた流れが変わる、大きなきっかけになるかも知れない。

近々始まる裁判員制度において、この流れが加速することを私は期待している。

「罪」を犯した理由を重要視する必要はあるのか?

加害者の年齢、生い立ち、精神状態を考慮する必要なんか無い。

加害者に対して被害者が何を望むのかに尽きる。

被害者には何ら落ち度は無いのだ!

反省して更生して欲しいのか、とにかく許すことが出来ないのか、被害者の

気持ちによって刑罰の重さが決まっても良いのではないかと感じる。

法廷での被告の態度を伝え聞く限りでは、反省の色は皆無である。

本当に反省していたり、過失であったのであれば、遺族に対してその念を

言葉であり態度で示す(自然に表れるはず)のが人としてあるべき姿だ。

それを鑑みれば、やはり被告はつゆほどの反省もしておらず、また今後も

反省することを期待できない。そんな君に残された道はただひとつだ。

弁護士のあり方も再考すべきだろう。

弁護士とは、事件に潜む当事者しか知り得ない真実を明らかにすることや、

冤罪を無くすことが最大の役割であるべきだ。

それにも関わらず、自分が弁護すべき人間の正当性を証明するためには

手段を選ばないというモラルの無さ。今回の事件も、本来ならば被告が

十分に反省していることを証明することが彼らの役割だったはず。

にもかかわらず、「ドラえもん」「儀式」「怪物」「甘えたい」などと

荒唐無稽の理由を並べ立てている。こんな主張をさせる弁護士も異常だが、

それを受け入れている被告も同罪だ。お前はもう十分な大人だからな。

弁護士諸君、裁判は君たちが満足感を得るためのゲームではない!

本村氏の気丈な姿を見て、感じるものは無いのか!